超ド底辺地方公務員の管理人です。
さて、地方公務員として歩みを始めてから、早いもので30年という月日が流れた。
窓口業務から内部管理、そして現在の管理職に至るまで、数えきれないほどの「声」を聴いてきた自負はある。
住民の困りごとに寄り添い、制度の狭間で苦しむ人々を救うことこそが、この職の醍醐味であるはずだ。(管理人はエネルギーを吸い取られるので嫌いだけどな!)
しかし、ここ数年、管理人の胸に去来するのは、純粋な使命感とは程遠い、言いようのない「疲弊」である。
明らかに、クレームの質が変容している。
それも、年々、より陰湿に、より独りよがりに。
「正義警察」の出現とその不条理
かつてのクレームといえば、その多くが「自身の不利益」に端を発するものだった。
「自分の申請がなぜ却下されたのか」「なぜ自分だけがこの給付を受けられないのか」。
こうした明確な利害関係に基づく抗議は、行政としては対応のロジックが立てやすい。
法や条例に照らし合わせ、納得感の有無は別として、淡々と説明を尽くせばよいからだ。
しかし、近年のトレンドは異なる。
いわゆる「正義警察」とも呼ぶべきクレーマーの急増である。
彼らは、自身に直接的な不利益があるわけではない。
ただ、重箱の隅をつつくように「おかしな点」を見つけ出し、自らの正義感や倫理観を一方的に押し付けてくる。
「ここはこうあるべきではないか」「この表現は不適切ではないか」。
一見すると、より良い社会を目指すための提言のようにも聞こえるが、その実態は、単なる個人的な主義主張の強要に過ぎない。
管理人は、自分の利益に直結しないことには全く興味がない性質だ。
だからこそ、こうした「利害のない正義」を振りかざす手合いが、心底うざいと感じてしまうのである。
「行政の無謬性」という時代錯誤な幻想
確かに、彼らの主張に一理ある場合も、稀にはあるだろう。
しかし、忘れてはならないのは、行政を動かしているのは神ではなく、血の通った人間であるということだ。
誰から見ても、どの角度から見ても100%正しいことなど、この世に存在するのだろうか。
特に個人的な信条や倫理観が絡む問題であれば、見る人によって評価が分かれるのは当然である。
いまだに「行政は無謬(間違いを犯さない)でなければならない」などと信じ込んでいるのは、もはや「老害」と断じても差し支えないだろう。
現代社会において、多様な価値観が存在することを認めながらも、行政という巨大な歯車を回していくためには、どこかで折り合いをつけなければならない。
それを「正義」という名の下に否定し、自らの価値観のみを絶対視する姿勢は、傲慢と言わずして何と言おうか。
1対数万の不均衡:それは「意見」ではなく「拘束」である
詳細は伏せるが、先日もこの手のクレームがあった。
何万人という人々が目にし、何事もなく受け入れている事象に対し、たった一人の人間が異を唱え、数時間にわたって職員を拘束したのである。
一人の主義主張をぐだぐだと聞かされる側にとっては、それはもはや業務ではなく、ただの苦行でしかない。
この時点でもはや、これは正当なクレームの枠を超えた「カスタマーハラスメント(カスハラ)」である。
公務員という立場上、どんな相手にも一定の礼節を持って対応しなければならない。
だが、その「公務員としての誠実さ」を人質に取り、職員の精神と時間を削り取る行為は、明白な業務妨害である。
カスハラ対策の義務化に寄せる期待と拭えぬ懸念
最近のニュースでは「カスハラ対策の義務化」というフレーズを頻繁に耳にする。
管理人としては、一刻も早い実現を願ってやまない。
しかし、同時に懸念もある。
こうした制度が、現場の痛みを知らない上層部によって作られた「形骸化したルール」に留まってしまうことだ。
重要なのは、実効性である。
「不当な要求には即座に対応を打ち切る」「悪質な場合は毅然として法的措置を検討する」。
こうした武器が現場に与えられない限り、職員の消耗は止まらないだろう。
管理人は、本来であれば頭に来たら、客だろうが何だろうがすぐに喧嘩(あるいは罵詈雑言)に発展しかねない気性の持ち主だ。
監督職という立場上、必死に自重しているが、正直なところ、腸が煮えくり返る思いをすることも少なくない。
我々が守るべきは、限られたリソースを有効に使い、大多数の住民に資するサービスを提供することだ。
特定の一人の「歪んだ正義」を満足させるために、貴重な税金(人件費)と時間を浪費してはならない。
30年の経験が教えてくれたのは、理不尽に対する忍耐の限界だ。
「正義」という言葉を隠れ蓑にしたハラスメントを、これ以上「公務員だから」という理由で受け流してはならない。
行政の現場をこれ以上疲弊させないためにも、我々は「ノー」と言える勇気と、それを支える仕組みを切実に必要としているのである。



コメント